読書記録「わかってもらいたい」という病 香山リカ
hungryswallowです。
香山リカさんの「わかってもらいたい」という病を読み終えました。
タイトルが気になって手に取った本です。
なぜ気になったか。
それは私自身がLINEで友人とやり取りしていて、ああこの人には自分の気持ちを分かってもらえないんだなと思ったことがあるからです。もっと言うと、友人に対してイライラしてしまったからです。反省。
そんな友人は何をしたかというと、ただ私と違う意見を述べた、その時全く私が欲しくなかった回答をした、それだけです。けれど私はとても嫌な気持ちになったのです。LINE上で議論したいわけではなく、ただ自分の気持ちを「わかってほしかった」のです。
この本は、香山先生の診察室にくる患者さんの「わかってもらえない」話を交えながら、「わかってもらいたい」とは何か、なぜわかってもらえないのか、それをどう受け止めていったらいいか、ということについて書かれています。
誰かにわかってほしいと思ってる時点で、相手にこう答えてほしい、こんな対応をしてほしいというイメージをもっている、という内容を読んだ時に腑に落ちたというか。相手に期待してしまっているわけですね。そこから外れた対応をされるとがっかりする。これは自分だ、と図星でした。私の反応は、ほしいものが手に入らなくてだだをこねているいい年した大人ってところでしょうか(笑)
相手だって超能力者じゃないんだから、まして違う人間だし分からないよね。まあ別に誰にもわかってもらえなくてもしょうがない。そう気楽に思えるようになりました。
そう考えると、まるごとそのままの自分をわかってもらいたい、愛してほしい、というのもどれだけ一方通行な考え方かと。(気をつけよう)
かといって、誰にもわかってもらえなくていい、と強く思える人ばかりではないと思います。辛かったり悩んだりしていると、色々外に求めてしまうし、残念ながら、誰かにわかってほしいという気持ちを利用する人達もいます。X JAPANのToshIさんが洗脳された事件や、座間死体遺棄事件についても触れられており、怖いなと思いました。
色々なセミナーやスピリチュアル、SNS上の人間関係、果たしてそこに理解を求めることが幸せ、解決なんだろうか、自分の「わかってほしい」は誰に何をわかってほしいのか。(私の場合は相手からの同意がほしかった)そんなことを考えました。どうしても相手に理解されることを求めてしまいがちですが、それがなくとも大丈夫と思える自分でいたいものです。
印象に残った文章
「ほどほどに願う」ということはむずかしいことだが、「わかってほしい」、でも「わかってもらえなくても、そのことじたいが不幸でも失敗でもない」と思いながら、あせらずに「どこかにわかってくれる人がいるかもしれない。いたらいいな」と願って求め続ける。これしかないのではないだろうか。